能力開発ニュース47号 1998. 9.16発行
能力開発ニュースのページ  JADEC-TOPページ

 内発的エネルギーの尊重
               能力開発工学センター理事 奥田 健二

『報徳記』を読み直す
 『報徳記』は、二宮尊徳の高弟で娘婿の相馬藩士高田高慶がその言行を記録したものである。った直後に執筆され、明治に入ってから出版され広く読まれるようになった。倉敷紡績の社長大原孫三郎もこの『報徳記』を『聖書』と共にその座右から離さなかったといわれている。

 1856年尊徳が亡くなり残念なことに、尊徳は明治政府を始め歴代の日本政府によって道徳教育の手本として利用されたため、多くの人々は今なお彼について悪い印象を持ち続けている。しかし、私共は彼の本当の姿を知るためにも『報徳記』を読み直してみることが必要だろう。

内発的エネルギーの発動を待つ
 いろいろの教訓を学びとることができるが、相馬藩(現在の福島県相馬市)における改革の事例は、現代の経営組織改革の在り方についての貴重な示唆を与えてくれる。

 財政難に陥っていた相馬藩では、農村の復興をはかって経済を再建しようと計画し、江戸駐在の家老が二宮尊徳に接触を始めたのは1842年のことであった。いろいろのいきさつの後、藩当局は三つの貧村の復興を尊徳に依頼するに至ったが、しかし尊徳は多忙を理由として、なかなか腰を上げようとはしなかった。やがてその中の二つの村の名主や篤農家たちが相談し合って、自分たち自身の側から村の再興への熱意を示す必要があるとして、それぞれ米や金銭を出し合い、復興計画を進めるための元手を作り、改めて尊徳の指導を懇願するに至った。尊徳は領民の生活を安んずることが復興の基本であることを説いて、貧民の救済、道路や橋の修復、優れた農民の表彰等々をすすめた。これまで貧困のあまり、勤労の意欲をなくし賭博にふけっていた農民もやがて勤勉な生活態度を取り戻したという。やがて復興計画(仕法)開始からわずか4年後には、荒れ地はことごとく開墾され、復興の道は成功を収めることとなった。

 このような両村の成果を間近に目にした隣村も競って仕法の導入を図り、さらにまたその隣村に復興の気運が湧き起こるという経過をたどり、1856年には復興計画を推進する村は50村に及び、そのうち15ヶ村は完全な復興に達したと記録されるに至った。これらの村において基準値(分度)を越えて生産された余剰米は1万俵あまりに達し、飢饉に対する備蓄とされ領民の心を安んずることとなった。

 この尊徳の農村復興のプロジェクトの経過については、さらに多くのことに触れねばならない。たとえば、米の生産高基準値(分度)の算定のためには、相馬藩における過去180 年の歴史を3期に分類対比して基準を導き出している点など、アプローチのしかたには興味深いものがある。しかし、最も注目すべきことは、貧村の人々自身が自分たちの力で復興を始めようとする内発的なエネルギーを持っていることを尊徳が固く信じていたことであり、その内発的エネルギーが発動してくるのを忍耐強く待ったという点である。また賭博にふける農民などをダメな人間だとして切り捨てたり差別したりしなかった尊徳の人間観も素晴らしい。100パーセントの善人、100パーセントの悪人などはいない。凡て人間は同じ可能性を持っているとする「非区分」の人間観であり、タオイズムの人間観である。
                  (東亜大学大学院総合学術研究科教授、元NKK理事教育部長)

能力開発ニュースのページ  JADEC-TOPページ