能力開発ニュース51号2000.4.28発行
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  MDレコーダーに代表される新技術と教育
     −CAIの新時代到来(2)−

              能力開発工学センター理事 井手 勝


■教育への新しい技術の導入
 なぜ新しい技術革新に対し、特に教育の視点から注目しなければならないのか。
それは両者の間に、一つの国家、一つの民族、ひいては人類の盛衰の歴史を支配する程の密接な関連がある、と見られるからである。この点について、ウィーン生まれの経済学者、P.F.ドラッカーの分析にこそ注目しなければならない。
 ドラッカーによれば、「学ぶことや教えることにかかわる新しい技術を導入することは、国家としての成功や、文化的な発展はもとより、経済的な競争力の確保にとっても不可欠である」という。(上田他訳「ポスト資本主義社会−21世紀の組織と人間はどう変わるか」、1993年、ダイヤモンド社刊、322頁)
ドラッカーはこの主張の根拠として以下のような興味深い分析を行っている。

西洋は印刷技術によって学校を変えたことで世界のリーダーとなった
 「西洋は、1500年から1650年の間に、世界のリーダーシップを握った。その大きな原因は、印刷本という新しい技術が学校を変えたことにある。逆に中国やイスラム圏は、印刷本によって学校を変えなかったために衰退し、ついには西洋に屈するに至った。
中国やイスラム圏も、印刷機を使った。中国にいたっては、活字印刷ではなかったものの、その何世紀も前から印刷機を使っていた。しかし中国やイスラム圏は、印刷本を学校にとり入れなかった。学ぶことや教えることの道具として、印刷本を使うことを認めなかった。
 イスラムの聖職者たちは、暗記と復唱に固執した。印刷本は、権威を脅かすものと見た。印刷本が、生徒たちに対し、独力で読み書きできる能力を与えるものだったからである。中国でも、儒者は印刷本を退け、筆写を重視した。書に秀でることこそ指導的地位に立つ者に必須の要件であるとする中国文化の考え方と、印刷本は相容れないものだった。」
(中略)
「印刷本というかつての技術革新は、もう一つ重要な教訓を示している。技術自体の変化よりも、それが教育や学校のあり方、内容、焦点に引き起こす変化のほうが重要だということである。たとえ学び方や教え方の技術的な変化がごくわずかであったとしても、それがもたらす教育や学校のあり方、内容、焦点という体系の変化には極めて大きな影響をもたらす。」


技術の役割
 ドラッカーは技術の役割について明確に規定する。
「技術は重要である。しかしそれは、従来やってきたことを、もっとうまくやれるようにしてくれるからではない。何か新しいことをせざるをえなくしてくれるからである。」
ここでもヨ−ロッパの例を紹介している。
「チェコのプロテスタント指導者、ジョン・アモス・コメニウス(1592〜1670)こそ、『近代教育の父』とも呼びうる唯一の存在である。彼は、カトリックのハプスブルグ家に対する1618年の反乱後の反革命によって、国を追われた。
われわれは、教え学ぶうえで印刷本を効果的な道具とするための技術、すなわち教科書の発明を彼に負っている。しかし、彼にとって、教科書は道具にすぎなかった。
彼は、カリキュラムを一新した。彼のこのカリキュラムこそ、今日、世界中の学校が、一般に『教育』としているものである。
彼の目的は、万人の読み書き能力の向上にあった。その動機は宗教的なものだった。すなわち、カトリックによる弾圧と牧師の追放のもとにあって、なおチェコの同胞たちが、プロテスタントとして聖書を独力で読み、かつ学ぶことができるようにすることにあった。」

 この例を踏まえて「われわれにとっての課題は、技術そのものではない。その技術を何のために使うかである」と述べ、知識社会が必要とする教育制度をつくるために新しい技術を使うべきというのがドラッカーの主張である。さらに「知識社会の学校は、ちょうどコメニウスが350年前につくった学校が、印刷本以前の学校とは全く異なったものとなったように、現在の学校とは全く異なったものとならなければならない」と予見している。

■印刷機に代わるMDレコーダーの出現
 コメニウスに印刷本の採用を可能にした技術に、1450年代のグーテンベルグの凸版印刷機の発明がある。そして最近、われわれは印刷機に比すべき新しい技術革新の成果を容易に、安価に入手できる。それがMDレコーダーである。
 それを使って、教育や学校のあり方、内容を変化させることこそ、今日、われわれが使命としなければならないことである。
 1450年代のグーテンベルグの凸版印刷機の発明が産業化され、コメニウスに印刷本の採用を可能にするまでには約150年の歳月が必要であった。
 地球上が情報通信により同時に結ばれ、基盤となる産業分布も全世界的に均一化された現在、新しい技術革新が世界各地に普及するのに、その地域の人々がそれを活用しよう、という気になりさえすれば10年もかからないかも知れない。そしてそれに成功した人々には、計り知れない利益をもたらすことになるであろう。

■MDは授業形態を変える
 例えば、大学はどうなるか。教壇の前で教授の言動を追う学生の数は、学生全体の数に比し微々たるものになる。その学生達は、このような形式の授業に興味を持つ、ほんの一握りの若者達である。では、他の大部分の学生は、一体どこに消えたのだろうか。
  現在の教授の話はすべてMDに録音され、「音の講義録」として大量出版される。極端に言えば、教壇の教授の講義行動はMDに一度だけ記録すればよい。学生達は、従来は時間割に沿い教壇の前で聞いた教授の話を、「音の講義録」で何時でも何処でも、電車の中でも聞くことができる。それが彼らが授業を受けている風景になる。
 集団で個人の受容体制を無視したまま、教壇の教授の言動を追うことを強いられる制度では、一日のうちで講義の時間帯が生理的に、一番眠たいものも混じるし、講義内容に興味の湧かないものもいるだろう。学生達の中に居眠りや私語は自然に発生する。
 「音の講義録」では、「講義内容の区切りマーク」を学生自身の手で付けさせるようにする。このときに講義録の中身が自然に吟味されるから、ある部分は繰り返して何回も聞き直されることも起きる。さらに言えば、録音した講義内容を、それぞれの学生に各自の思考構造に沿って組み替える編集作業を実施させることが本質的に重要である。「録音した講義内容」は、学生達をそのような行動に導くための材料、すなわち教材に過ぎない。
 かくして、学生達は「音の講義録」を通じ、教授に質問したり批判したりする話題を持つことができる。予習を終えた学生だけが教授を囲んで対話する形の授業に参加する。そこでは、少なくとも居眠り風景は見られないだろう。
 この方式は、大学に限らず、小学校から、さらに生涯教育にも応用できるだろう。

 
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